教育から「共育」へ
人に教えたり導いたりすることは、時にとても責任が重く、難しく、お互いに大きなリスクも伴います。
そんな重圧を感じているときに、メンターからアドバイスいただき教わったことがありました。
「教育ではなく、共育(きょういく)だよ。」
ということです。
正直なところ、最初はピンと来ませんでした。
どうもよくわかりませんでした。
このことは数年にわたって、何度も何度もメンターから伝えいただき、ようやく腑に落ちたのです。
誰かに何かを「教える」ことは、比較的容易です。
先生側が専門的に知識を持ち、それを言葉でアウトプットできれば、教えること自体はできます。
学校教育のほとんどは「教える」ことが当たり前ですし、学ぶ側も「教えられる」ことが当然と捉えています。
これはこれで一定の成果があるのですが、残念ながら結果は限定的なものになります。
以前は私もその壁を感じていたことがあります。
「共育」とは「共に育つ」ことです。
つまり、教える側も、教えられる側も共に育つということ。また、受講生同士も学び合うということです。
「共育」とは
- 教える人も、教えられる人も、共に育つ
- 受講者同士も学び合う
先生・講師・トレーナー・コーチ側が、一方的に偉いわけではない。
先生は生徒がいないと成り立たないし、生徒もまた先生を必要としています。
その両方が噛み合ってこそ、セミナーや授業、セッションが成り立ちます。
お互いが、お互いの存在価値を高めていると言えます。
共に学び、共に育ち、共に高め合う。
そうすることで、「教育」では得られなかった新しい価値の創造が生まれます。
最高の先生は、最高の生徒であれ
私にはひとつのポリシーがあります。
最高の先生は、最高の生徒であれ。
というものです。
先生というのは、先を生きる人。
先に行っていろいろ経験し、失敗も成功も知っている人だと思っています。
そして、先生という存在は進化が止まったら終わりだと思っています。
誰も、過去の栄光を語る先生や上司の言うことは聞きたくはないでしょう。